シェアハウスの時代の総括と今後の展望(丸山寛氏の闘い)

シェアハウスの時代と今後の悲観的な予測

 2010年代前半はシェアハウス・シェアスペース「運動」の時代だった。

 

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情況2016年4/5月号より一部転載

 同時多発的に日本の津々浦々で、20代から30代の若者が一軒家やマンションの一室や長屋等を賃借し、その場所のルールや理念を自分たちで定め、自分たちのお金でその場所を維持する自治空間を創設した。大学や会社や家族や既存の社会のあり方に対して、反抗し、創造する居場所作りを行った。例えば、東京の私たちは大学の自治の喪失と対峙し「自主生存」「異文化交流」「文化発信」を理念とする自治空間 共同運営実験スペースりべるたんを2012年に創設した。同じく東京の渋家(しぶはうす)は、アート系の若者が主体となり「家を24時間365日解放しておくことで新たな関係性を生み出し、それを多くの人と共有することで「物語」を生産」(渋家HPより)することを目指す活動を2008年より展開している。

 同じように何かしらの志向性を持つシェアハウス・シェアスペースが、大阪では中津の家、京都ではファクトリー京都、福岡ではBUMBO福岡(2016年閉鎖)、また全国に拠点を持つリバ邸など、若者を中心にあらゆる世代、年代が自由に集い、既存の社会に対するオルタナティブを目指す運動が2010年前後、申し合わせたかのように日本全国で展開された。

 

 多数の同業者の、さらには自団体の名前を上げたうえで申し訳ないが、私はこれまでに展開されたシェアハウス・シェアスペース運動の多くは、近い将来に頓挫すると思っているし、あるいはそれは既に始まっていると思っている(後述するように全てではない)。シェアハウス・シェアスペースの多くは大学及び社会から、モラトリアムを謳歌する場所が減少したことによる代替物としての機能が大きい。若者のモラトリアムはいずれ終わる。その時にモラトリアムの代替物としてのシェアハウス・シェアスペースは死ぬ。もしくは、モラトリアムとは別のところに問題意識を持ち変革の闘いを続けようとする創設者やコアメンバーと、モラトリアムを抜け出すこともせず社会と折り合いをつけて働くこともせずに、何らの反抗や創造もできない者、この2グループだけが残る。これは中々に悲惨な状況で、直近の歴史の中にもそのような状態に陥ってしまっている運動はいくつも見ることができる。

 

 ではどうすれば良いのだろうか。

 本稿においては、現在のムーブメントに先立って同様の闘いを展開した 谷中生産技術研究所(以下、谷中技研)※注の闘いを紹介し、検討を進める。谷中技研とは、私達より一足先の2001年の東京大学駒場寮の解体を受けて、大学の外に「自治」を創造する試みとして駒場寮に住んでいた東大生によって進められた運動である。シェアハウスや住み開きという概念がまだ世に根付く前のことで、この動きはかなり早く、また珍しい。この試みと生活ぶりはテレビ朝日のバラエティー番組「銭形金太郎」にも取り上げられたという。

 当時の駒場寮を失った東大生たちは西日暮里駅から徒歩10分ほどのところの一軒家を賃貸し、5部屋の個室に24時間開放されたフリースペースを持つ、それこそ縮小された自治寮のような運動を展開した。

 しかし、現状において谷中技研の活動はほぼ停止してしまっている。本稿においては、この場所で最後まで闘いを続けた谷中技研のメンバー丸山寛氏から話を聞くことで、彼の誠実で真摯な闘いを未来につなぐことを目指す。現場で悩み苦しみ喜び闘いを継続している一人でも多くの「同志」の活路が開かれることを願い、本稿を進める。

 

谷中技研における丸山氏寛の闘い

 

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友人であり先輩であり同志である丸山氏

 丸山氏は、2006年〜2007にかけて谷中技研に関わり始めた。丸山氏は東大生というわけでなく、谷中技研に関わる前はバックパックを背負い世界を旅していた。旅が一段落し日本に帰国した折に知り合いに紹介され谷中技研を訪れ、以降約10年ほど関わることになる。

 先にも触れたように谷中技研は東大駒場寮の解体を受けて当時の東大生が創設したスペースだ。しかし、丸山氏の関わり始めた2006年ころには、「東大生のスペース」からの変容がはじまっていた。谷中技研は創設から5年以上がたち、現役の東大生はゼロ、多くのメンバーは就職などで、谷中技研の理念とは離れた場所に日常を置くようになっていた。丸山氏によると、当時の東大生にとって谷中技研は「思い出物件」になってしまっており、時折訪れるだけの場所になっていたという。谷中技研も離れ、谷中技研の掲げた理念とも離れた生活を創設メンバーの大半が送るようになっていた。

 なぜ、東大生たちは谷中技研を離れたのか。丸山氏はこの理由について、「東大(大学)を出ていると、どこかで食える道を見つける。だからすぐに実社会にいける」と実社会(今、社会の中で常識として受け入れられている制度や雇用や労働や生活)への移行を理由にあげる。社会を変革するために掲げた理想や理念を遂行する生活をしなくても、違和感や矛盾ある社会において十分に食っていける、むしろその方が豊かな生活ができる。掲げた理念はどこかに置き去りにされ、みんなで作った場所は思い出の一つになる。

 丸山氏が入居を決めたのは、東大駒場寮の学生たちが「学生」の時期を終え、「社会人」としての選択を終えようとしていた2007年のことであった。丸山氏が入居した段階で、東大の卒業生が一名いるのみで、後の居住者は谷中技研の理念の一致による居住ではなく、知り合いのつてで住み始めた家賃を払うだけの居住者が大半になっていた。そして、丸山氏が入居して程なくして最後の一名の東大卒業生も「田舎に帰る」という理由で、谷中技研を後にする。他の居住者にとっては、谷中技研は外で働いて寝に帰る一般的な家と大差ない場所であり、生活を賭してまで谷中技研の理念を遂行しようという気概はない。谷中技研はそれまで毎年選挙によって塾長を選出し、月に一度谷中技研の運営を話し合う会議も開かれていた。しかし、2007年以降は選挙も会議も機能しなくなり、丸山氏が2015年まで実質の塾長(丸山氏自身は管理人と呼んでいる)を務めることになる。

 

 なぜ丸山氏は、谷中技研を実質的に引き継ぎ、その任務を約10年も継続したのだろうか。丸山氏はその理由として「谷中技研が好きだったから」と述べている。谷中技研は毎月4万円の家賃は発生するものの、理念を忠実に遂行すればお金をほぼかけずに生活できる。誰を呼んでもいい、24時間開放された空間がある。丸山氏は、谷中技研の場所と理念の遂行において、実社会とは別の生活を発見した。

 丸山氏は谷中技研において、いかにお金を使わずに人を呼んで交流できるかの追求を始める。私自身、谷中技研で生活をしていた丸山氏を何度も訪ねたことがあるが、彼の生活に非常に大きな影響を受けた。丸山氏は必要最低限しか賃金労働をしない。私が頻繁に訪ねていたころは、早朝の警備員の仕事をしていて朝の5時くらいに仕事に行き、昼前には帰ってきていた。そして丸山氏は、家に余っている大根でも何でも捨てないで持って来いといい、谷中技研に集まった食べ物を魔法(彼は加工と呼んでいる)のように調理する。また、丸山氏自身も食材を集める名手で、100円を切る肉野菜魚等々をどこからともなく買ってきて、これまた絶品の料理に変える。そして、丸山氏は谷中技研を訪れた人と美味しい料理を共に食べつつ交流をする。一度、私が業務用スーパーの100グラム100円を優にを切る安い肉を持ち込み「これどうします?」と相談したときに「こういった物をどうやって美味くするか考えるのが面白いんだよ」と楽しそうに笑ったのを今でも覚えている。

 

 しかし、丸山氏の試みを面白がる人はいても、丸山氏と同様の生活に移行しようとする者は現れない。丸山氏の孤独な戦いは続く。この点が丸山氏を悩ませた。丸山氏は、丸山氏は別の社会の在り方として「来れば飯が食える場所」を提唱し、具体的なイメージとしては、311後の被災地を挙げている。丸山氏は被災地にボランティアに行った際に衝撃を受けたという。「みんな体育館にごろ寝。食べ物も味噌汁とご飯しかない。でもゲラゲラ笑って助け合いながら過ごしている。同じ場所に雑魚寝して、同じ味噌汁とご飯、これで幸福に過ごせる。災害ユートピアと言われるかもしれない。しかし、ユートピアのような二ヵ月、三ヵ月が確かにあった」と述懐する。

 

 丸山氏は、実社会とは別の在り方を提唱する試みを谷中技研において約10年間続けた。

しかし、丸山氏の魅力的な試みは周囲に賛同され、拡大を勝ち取るには至らなかった。丸山氏の「生活」が「社会」になったとは必ずしも言えない。丸山氏は、この理由として一つに年齢をあげる。丸山氏は2007年において30代半ば。学生と学生以降では認識に大きな違いが生まれる。東大生が谷中技研を去ったように、実社会の主軸たる30代40代には、丸山氏のメッセージが届くことは少なかった。そして、丸山氏は「実社会の方に魅力がある。何だかんだでみんなそこまで困っていない。実社会がどんなに苦しい場所でもこちら側に来ようとは思わない」と今ある社会の強大さを話す。

 

 また、丸山氏の困難はこれだけに留まらなかった。丸山氏の生活は実社会からの攻撃の対象にもなった。丸山氏が、食材を仕入れる際に数円、数十円単位まで気にすること、人よりもわずかしか賃金労働をしていないこと、24時間開放のスペースを来訪者の使い方を注意したこと等々で、実社会の認識から傷つけられることは少なくなかった。

 私も丸山氏と同業者として実社会の攻撃について考えることが度々ある。基本的に進学や就職など人生の新たな場所には一人で進む。住居も血縁者以外と一緒に住むことはほぼない。血縁者との同居以外では大半が一人暮らしとなり、家電や家具や物の大半を私有する。衣食住は賃金労働で個別に与えられるお金で賄い、その個人の領土やルールに他者が介入することはない。

 一方、丸山氏の試みや今ある多くのシェアスペース・シェアハウスの根底にあるのは集の試みだ。場所や物は個人のものでなく、みんなのものになる。当然、発生する問題もみんなのものであるし、またそもそもにおいて個の生活では発生しない問題が大半である。集の発想による、みんなの場所、みんなの物、みんなの問題、これと実社会の個は相性が悪い。シェアスペース、シェアハウスはレストランやホテルのように誰かが料理を運んでくれる、皿を洗ってくれる、掃除してくれる、警察や事務員のように誰かが面倒を解決してくれる、実務を処理してくれる、こういった事は絶対にあり得ず、構成員の誰かが時間を割いて対応している。この事がなかなか理解されない。さらには、そもそも場所や物があって当たり前、大事なものだと扱わなれない事もままある。これらの認識は時に非常に運営を苦しめる攻撃になる。

 

 現在、丸山氏は谷中技研を離れ横浜にて新しい闘いをはじめている。谷中技研を離れた理由については「やれることは全てやったから」と話す。谷中技研は、丸山氏が離れた現在、意志を継ぐ者は途絶え、24時間解放のフリースペースも制限がかかっている。

 その上で丸山氏は谷中技研という場が残っている意義を語る。「今後、さらに年齢を重ねて境遇の変わる人が出てくるかもしれない。例えば失職して何社受けても決まらない。そんな時に僕を見ていた人が僕の生活を思い出して、変化があればそれでいい。『そういえば、あいつはお金を使わないで人を集めて生活していたな』と。その時のために、場さえ残っていればいい」。

私は、友人であり、先輩であり、一人の師である丸山氏が谷中技研という場所で試みたこと、その場所を残したこと、丸山寛の10年間に及ぶ素晴らしい「仕事」に最大限の敬意を評したい。

 

注 スペースの総称は漢塾と呼び、その中で丸山を主体とした活動を谷中技研と呼ぶ。本稿では谷中技研と統一して扱う。

 

※ 以降は情況2016年4/5月号にて。

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だいたい結婚と一か月

櫨畑敦子さんとだいたい(大体、代替)結婚して一ヶ月がたった。

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しあわせ、とてもしあわせ

僕と櫨畑さんは、出会って二回目でだいたい結婚した。
初めて会ったのは2015年の年末のことで、レボリューション企業のお弁当屋さんのお昼のピークの仕事を終えて、これまたレボリューション企業のリサイクルショップ落穂拾に帰ってきたら大阪の藤野ふみや同志と、そして櫨畑さんがいた。

僕は、最初櫨畑さんを、よく(というか毎日)店番をしてくれているご近所のおじさんの親戚かな?と思った。容姿が似通っていて、二人で楽しそうに服を整理していた。僕は、そのおじさんのことが好きで今でも仲良くお弁当食べながら一緒に店番している。だから最初から櫨畑さんは、恐らく良い人なんだろうと思った。

その日の夜に藤野くんと櫨畑さんに同僚のぶん斗同志を加えた4人で横浜のかとうちあきさんのお店のようなものに行った。ぶん斗同志の運転でドキドキのドライブ。無事にお店のようなものに辿りつき、今後の僕達の方針のようなものについて、わいわい話をした。「楽しい一日だったなぁ」と思いながら、寒さに震えながら雑魚寝した。

これが櫨畑さんとの出会いである。

 

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幸せに続いた縁談ビラ。

年が明け、僕は婚活を始めた。
SNSで拡散したり、勤め先のリサイクルショップに縁談募集のチラシを貼ったり、春を迎えた犬のように息巻いた。「菅谷はタフでとてもいい男です」とか「すがやんほどの良物件は滅多にない」とか「いい奴オーラですぎだろ」と応援のメッセージがたくさんきたけれど、応募はゼロだった、ゼロだった。

そんな息巻く菅谷さんに櫨畑さんから、「婚活募集、反響ありますか」と連絡が来た。

僕は櫨畑さんに
「応援してくれる人はいるけれど、相手はまだ一人もいない(><)」という内容を書いた。そして、その最後に
「結婚する?」
と添えて返信した。

履歴を見直すと、「結婚する?」と聞いたのが2月15日のことだ。
その後何度か電話やFacebookのメッセージをやりとりして、2月26日レボリューション企業で大阪出張に行った際に、協議の上でだいたい結婚した。

 

経緯を書くと、ほぼこれが全てだ。だいたい結婚まで手をつないだこともない。
今のところ、櫨畑と菅谷は結構うまくやっている。幸せに過ごしている。

 

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大阪の披露宴にて。これまたしあわせ。

何度か連絡を取り合う中で、僕と櫨畑さんにはいくつかの共通点があることがわかった。

大きくは、櫨畑さんも僕も既存の社会をあんまり信じてないし、もっと豊かでもっと自由な社会を自分たちで作れるだろうと思っている。そして、実際にそのための実験や闘争を日々成功したり失敗したりしながら続けている。

二人でどういう結婚をしようか、という話はもっと豊かでもっと自由になることを優先事項として話し合った。2月26日の夜、僕と櫨畑さんと、それに大阪の藤野君と東京の宮内君とで、どのようにすれば、より豊かにより自由な結婚になり得るのかを検討した。

二人で合意に達した契約にはいくつか普通の結婚とは明確に違う点がある。

・籍をいれない。
・1年契約である。1年毎に二人の関係を見直し、より豊かにより自由になれるように契約書を修正する。あるいは、契約を解消する。
・子供が生まれた際に二人で、もしくは血縁関係のみで育てない。補充的に、藤野ふみや君・宮内春樹君も協議の上で実施する。
・子の妊娠の発覚まで他の異性と性的行為をしない。妊娠後は新たに協議する。
・同居の義務を負わない。ただし同居状態でない場合は月に少なくとも1度は面会の義務を持つ。
・双方に扶助義務を負わない。
・上記の内容や契約の内容に反する行いがあったときはすぐに関係を解消できる。
・二人の間で紛争があった場合、契約の違反を疑われる行為があった場合は、共同体によって裁判が行わる。

などなどがあり、普通の結婚とは少し(かなり?)違う。

 

この内容は櫨畑さんと菅谷で共通で信じているもの、あるいは共通で信じてないものの内容が色濃く反映されている。

例えば1年契約である点は、櫨畑さんも、僕も、二者間の永遠の愛を信じていないし、むしろそういった幻想のせいで苦しめられてきた。だから、男女二人だけで、子どもを育てることは、場合によっては子どもを苦しめてしまうのではないかと思っているし、実際にそういった経験もしてきた。
二人だけで育てるのは難しい! それなら、自分たちが選び、主体的に生きる共同体、何かしら人生の喜びや悲しや希望を共に創造できる仲間と一緒に子どもを育てた方がいい。この点を二人とも信じている。

また、社会も私たちを苦しめてきたもので、これからもあんまり仲良くやれないだろうと思っている。それを全否定したり、全く関わらないということはないけれど、それよりも豊かで自由な新しい社会を自分たちで作れるだろうという思いがある。結婚も子育ても、その社会の中で行いたい。判を押して役所に提出するだけで成立する法律婚より、こういった契約の方が、自分たちと大事な人・そして共同体も、より豊かにより自由になれるのではないかと信じている。

また、櫨畑さんは「社会には結婚をしたくてもできない人がいる、それなのに無自覚に結婚をする側に一票を加えたくない」と主張していて、当初僕にはこの視点がなかったけれど、話を聞いて以降この主張に同意している。

 

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櫨畑さんとだいたい結婚して一カ月。
この試みがどのように進むかは、まだまだ未知数だけど、少なくとも今はとてもとても幸せな日々を過ごしている。これから先、苦しい思いをしている人がもっと気軽に「そっちの社会の方がいいな」と、より豊かでより自由な社会への実験に参加できるようなそんな幸せな風景のひとつになればいいなと思う。

闘争であり、研究であり、実験である日々を今後も幸せに続けていきたい。

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だいたい結婚しました(#^_^#)

2月26日、櫨畑 敦子さんと「だいたい結婚」しました、わーい。

左から櫨畑 敦子さんと菅谷。

左から櫨畑 敦子さんと菅谷。

このだいたい(大体、代替)結婚には、普通の結婚とは違うところがいくつかあり、新しい試みになります。

 

具体的には

・籍は入れていません
・1年契約で関係を見直します。
・子供ができた場合、二人だけでは育てません。また、育児や教育を血縁だけにも期待しません。具体的には大阪では藤野君、東京では宮内君にも扶養の義務があります。

等々です。

菅谷も櫨畑さんも既存の家族や社会に対して、ちょっと違うんじゃないか、もっと良いものができるのではないかという思いが強いところが一致しています。話し合って、このような形の「だいたい(大体、代替)結婚」となりました。
この結婚は読んでわかる通り一般的な結婚とは違います。もしかしたら既存の結婚や家族の在り方に一石を投じる素晴らしいものになる可能性もありますが、いきなり縁起でもないことを言いますと、もしかしたら失敗に終わるかもしれません。また、一般的な結婚とは違う故になかなか人に理解されずに苦労が多いかもしれません。
しかし、その分だけとても楽しくとても豊かでとても幸せなものになるのではないかとも思っています。

村上龍氏が69という小説の後書きに、「楽しく生きるためにはエネルギーがいる。」と書いていました。普段あんまり本の後書きを覚えていることはないのですが、高校生の時に読んで、今でも時折思い出す、なぜだか印象に残っている後書きです。
このだいたい結婚は、新しい試みとして非常にエネルギーが必要なものかもしれませんが、きっと素晴らしいものになるのではないかと思っています。
そして、そういった楽しさや豊かさや幸せが、家族や結婚に悩む一人でも多くの方に「そういうやり方もあるんだ!」と希望や勇気を与えられるものになればいいなと思います。
今のところ、櫨畑も菅谷もとてもとても幸せで楽しい日々を送れています。
今後もこういった日々が続くように、そして一人でも多くの方に伝えて、教えて、幸せが増えていくように、日々を丁寧に、真剣に、まい進していきます。

皆様今後ともよろしくです(*^_^*)

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りべるたん代表選マニュフェスト

3月4日、りべるたん2016年度代表に選出されました。その際に掲げたマニュフェストを公開します。

りべるたん代表立候補 マニュフェスト

はじめに
共同運営実験スペースは今年で創設4年目を迎えます。
この間に創設メンバーの大半は大学を卒業し、当初学生のみだった運営者の年齢層も非常に幅広いものになりました。学生時代に大学に対する問題意識からスタートしたりべるたんは、大学自治の対峙から離れた場所へとこの場所がある意義の変容を必要としています。既にこの変化の波は到来しており、ある面においてはその変化に適応し、またある面においては適応できないことによるほころびも見え始めています。
私は、大学の自治の喪失というりべるたん発足の問題意識を忘れることなく、その上で、より継続的で、より幅広い年齢の、より充実したりべるたん自治を勝ち取ることを目指します。学生時代に「大学とはこういう場所であってほしい」という理想をりべるたんは一部ながら実現しました。それを今後は「社会とはこういう場所であってほしい」という、今私たちが直面している日常の中の違和感や憤りや不安に誇りを持って別の回答を提示できるりべるたんを目指します。
また、りべるたんは簡単に離脱できる、片手間で運営者を名乗れるという手軽さが魅力の一つとなっています。このりべるたんの良い部分は継承しつつも、他方では、りべるたんに腰を据えて生活できる、生きていける状態を目指します。「住」と「職」の改革を積極的に進めます。

三大方針
① 安宿・仮初の住まいではなく生活の場としてのりべるたんへ
りべるたん運営は財源的にも運営的にも居住者の存在が大きなものとなっています。りべるたんは共同運営実験「スペース」と銘打っていますが、実情においてシェア「ハウス」、家としての機能も大きいものです。これまでのりべるたんの継続の軌跡において意識的な居住者によるりべるたんの維持、りべるたん像の形成は決して無視できませんし、それは今でもささやかながらも確かに継続されている「実験」です。
現在、りべるたんに住んでいる、りべるたんを日常の中に置いているのは運営者の中で3分の1弱かと思います。この3分の1弱の中にある、家としてのりべるたん、共同体としてのりべるたんを推進し、また人数の増加を目指します。

具体案
・居住者の増加に伴うりべるたん増築
・増築物件の中に居住者の要望を叶える機能の設置(ex勉強スペース、作業スペースなど)
・居住部の自治の拡大、居住者の困りごとや生活環境の改善を運営レベルに持ち上げる

②労働を通じて集まれる、交流できるりべるたんへ
2015年前記総会を経て、りべるたんのための労働「土曜労働」が開始されました。私は、この方針を今後も継続します。学生でなくなった私たちが何によって東京都豊島区東池袋5丁目に結集できるのか、また創設の動機である自治の喪失と今後どのように対峙し、戦えるのか。私は、この結集軸としてりべるたん内における労働を提唱します。各員が持っている労働の知恵を教えあい、研鑽しあい、行動と総括を繰り返し続ければ、この労働は自主生存への展望が絶対に開かれると確信しています。労働によって、不当に虐げられ、苛められ、苦しめられるのではなく、共に教えあい助けあり、誇り高く楽しい労働の道を切り開きましょう。

具体案
・土曜労働の拡大、結集するメンバーの増加を勝ち取り土曜日以外も労働するりべるたんに
・労働内容の精査と充実、畑と行商、新物件での労働、りべるたん何でも屋など、既に行っている労働や現状出ている案について、行動と総括を繰り返し、何をどのような形で行うのがりべるたんのための労働に成り得るのかを検討し、方針を固めていく
・志望運営員がいた場合、りべるたん事業を職として生活できる環境の創出(志望運営員の能力にもよりますが)

③現状あるりべるたんの良さの継続
現在のりべるたんにおいて「人をほぼ排除することなく交流できる、場合によっては住むこともできる」という点がりべるたんの大きな良さだと考えています。そのため、りべるたんの認知と入り口の広さを今後も継続・改善します。一人でも多くの同志と成り得る老若男女との思いがけない出会いを増やしていきましょう。

具体案
・「イベント部主導」による金曜日開放の継続と改善
・月に一度のりべるたんイベントの継続と内容の精査
・告知および対応の改善により、りべるたんの間口の拡大

最後に
私はこれまでりべるたん活動全般において、最終的には私の行動によって、問題の対応や実務を遂行できればよいと心の中で思っていましたし、実際にそのように行動していました。全てを自分でやってもよいという気持ちで運営していましたし、裏を返せばその程度のレベルでしか大部分の運営者には期待していませんでした。この思想は、共同体や組織を否定的に批判し、個の精神を固く信じていたところによるもので、この精神は私のみならずりべるたん運営の随所に見られるものです。例えば、りべるたんの良いところとされている手軽さ、離脱しやすさ、責任のなさなどは私のみならず特に創設メンバーの組織の否定的批判が強く反映されたものであると考えます。

詳細は省きますが、私は昨年の豊島区議会選挙落選及び安保法案成立の二点から、このままでは何も成し得ないと総括するに至りました。自分の生きる、働いている、「今ここ」の闘いこそ、活動家の端くれとして他の何よりも推し進めるべきだという考えは変わりませんが、スタンス自体は変化しています。現在は組織の否定的批判でなく、肯定的批判を自分の中の実験課題と置いています。

私が仮に代表に信任されても、前回代表を務めさせて頂いた時とは、物事への対処で違いが出るはずです。具体的には、私は以前よりも自分自身のみを働かせません。他の人の働きを期待し、また稚拙ながらそのように促す努力をします。あるいは、そのことによって物事のスピードが落ちるかもしれませんし、一人で進めていれば達成できたはずものが達成できないかもしれません。前回代表時・これまでのりべるたん業務と同様に最終的な責任を取る覚悟は変わりませんが、個人的な体を動かす量は減らします。そうした方がりべるたんのため、あるいは他者のためになるという実験の中の仮設を現段階において立てています。この点を信任の際に重要視していただきたく思います。

りべるたんに結集される全ての皆様! りべるたんずが団結すれば世界中の誰と闘っても、この場所の自治を守り、そして拡大していくことができると私は確信しています。4年目のりべるたんも尚一層、「団結」について考えて、その上で団結頑張ろう!!

以上、よろしくお願いします。

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助け合い結婚に決起しよう!!

 

働いているリサイクルショップ落穂拾で書いた文章です。

 

落穂通信2.4
「婚活をしよう!」(副店長)

 

久々、副店長です。
突然ですが私は切実に結婚がしたいです! そして周りのみんなもどんどん結婚すればいいのにーと思っています。結婚、というとよく「年収●●円以上ないと無理、不安」という条件が出ますが、僕にはこれが今いちわからない(だからこそ現代社会で結婚できていないのかもしれませんが笑)。助け合うことができれば、一人で生きるよりも二人で生きる方が豊かになるに決まっているじゃないか。「あなたは何々ができて、自分は何々ができる」と協力すれば、年収云々関係なく今よりもあらゆる面において良い生活を送れる。現に、私は結婚以外ではこういったスタンスで豊かに生活できていて、これをもっと推奨していきたいし結婚もそうなってほしい。

現在、日本では3組に1組の夫婦が離婚していると言われています。潜在的に「離婚したい!」と思っているけれど、諸所の事情からしていない、できない夫婦を入れれば、悲惨な結婚生活はもっと増える。余談ですが、私の家もそういう感じでした。幸せでない結婚生活を送っている夫婦がこんなにもいるのです! これは行き過ぎた恋愛重視が大きな理由のひとつだと思っていて、「好きだ」「あなただけを愛している」で結婚しても大体は上手くいかない。大多数の人間の感情なんて、割かしすぐに移ろいで行くのです。

年収もダメ、愛や恋もダメ、じゃあ何があるのかというと、ここでは結婚の視点を変えて「助け合い結婚」を提案したい。もちろん嫌いな人、苦手な人とは無理ですが、こいつだったら悪くないかなーという人と、「お互いこういう所を助け合っていこうよ」と人生のタッグを組む。例えばそういう夫婦と別の助け合い夫婦(仮に和田夫婦)がいたら、「私たち夫婦は○○がないから、和田さん夫婦のところで助けてくれー」と助け合いの輪が広がる。一人で生きていたのが二人になってさらに四人に! もっともっと増える可能性もあり! 「年収●●円に満たないから結婚できない」とか、感情が冷めて離婚するというのより希望を感じませんか?

子供の教育費用どうするんだ?と聞かれそうですが、これは落穂拾結婚推進チーム調べによると、そんなに望外な費用がかかるわけでない。「子育てするお金がなくて不安な方へ。産まれて3年間の収入と支出を比較したらプラスだった!」といった記事もあります。もちろん全くお金も苦労もかけずに子供を育てるなんて甘いことはないけれど、2人の大人(あるいはもっと大勢が)が助け合えば決して不可能ではない。問題なのは、お金がないと結婚できない、子育てできない、お金こそ必要!と思わせている風潮だ。年収がなんだ、愛だの恋だのを乗り越えて、「助け合い結婚」に今こそ踏み出そう!

副店長 菅谷圭祐(縁談の連絡切募。 メールアドレス sugayakeisuke@gmail.com ℡090-7525-4766)

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2015年総括1 総論としての自殺と自由の検討

2015年、僕は27歳から28歳になった。
27歳から28歳になるまでの期間というのは僕にとって自分が死ぬことについて、これまでの全生涯において最も具体的に、より現実的に、検討する時期だった。

年末、躍動する菅谷さん。

年末、躍動する菅谷さん28歳と6ヶ月。

  

27歳は、僕がこの世に生を受けるに当たって恐らくは重要であろう人が自殺した歳であるらしい。そのことを知ったのが24歳で、その時から僕は27歳での自殺について考えを巡らすことになった。その歳に、自ら命を断つことに何かしらの重要な意味があるのではないか、その先も生きていくよりもその方が良いのではないか、27歳の自殺に込めたと思われる積極的な意味を見出すように努めた。

考える時間は、歳を重ねるごとに増えていき、2015年4月末、豊島区議会議員選挙に落選したあたりから、それは僕にとって最も優先度の高い検討事項になった。そこから28歳までの約2ヶ月間、ご飯を食べていても、仕事をしていても、もしくは別の何かを考えている最中でも、頭のなかには常にそれがあった。

しかし、僕は28歳になってしまった。

自殺を放棄したとか、生きることを選択したというボジティブな理由ではなく、時間に押し出されるように28歳を迎えてしまったという方が感覚的には近い。2015年6月23日火曜日、27歳までと変わらず僕は介助の仕事へと向かった。そして28歳という年齢も、これまでの他の年齢と同じように少しずつ僕の中に染みこんでいくことになった。

現在、自殺は僕の中では自分が取れうる行動の一つという場所に落ち着いている。ご飯を食べる、仕事をする、あるいは選挙に出るために借金をする、網走まで旅に出るなど、こういったものと同じく自分が取ることのできる行動の一つ。僕の中において、自殺は24歳から27歳までとは明らかに違う場所に収まった。

僕は2015年の半分を27歳として、残りの半分を「新しい」28歳として過ごした。そして、そこにはいくつかの総括がある。

  
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28歳、僕はいくつかの、恐らくは根底においては全てつながっているであろう問題について、総括し、方針を立て、行動をしなければならないと思うようになった。具体的には、選挙で敗北したこと、3年間続けたりべるたんが行き詰まっていて今後それはさらに加速するように(僕には)見えること、種々の人間関係により僕の人格に欠落が発見されたこと、こういったことの根底で共通しているものを見つけ出し、総括する作業を始めた。それをしなければならないのだと強い思いを抱いた。

僕は生物としては自殺はしなかったものの、これまでの自分をある部分において殺す作業を積極的に進めることとなった。その作業は時に僕を奈落の底まで絶望させ、時に銀河の果てに届くほど高揚させるものとなっている。

総括の過程で、僕が殺しにかかるまでもなく既に僕の中からは失われてしまっているものも発見した。例えばそれは、僕にとってはささやかながらとても大切に思っているものだったりもした。
それは僕が今までの僕として生きてきたことで失われてしまったのか、あるいは別の理由で失われたのかはわからない。日常の中に当たり前にあると思っていたものをどこかで失ってしまっていた。そして、ささやかな大切なものの空白を埋められないままに、総括を進めていくこととなった。

空白は次から次へと発見された。それでも、総括を進めなければならないと思った。それなくして、僕は僕自身としては生きていけない。
このように28歳は、こうまでして生きていかなければならないのかという絶望と、こうやってでも生きていくんだという高揚が交互に訪れる、そんな歳になっている。

  
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28歳を半分終えた2015年末、現段階における総括の総論としてひとつのわかりやすい説明がある。

仮に今僕が死んだとする。
「ええ、菅谷さん死んだんですか。葬式はするんですか、僕行きますよ」、多分こんな話がいくつかの場所で展開される。恐らく多くの人は僕が死んだということにその瞬間は驚き、儀式的な美しさを伴った形で消費してくれる、それはとても素敵な余暇の充実の一つとなる。しかし、僕が死んだことに対する消費行動をある程度終えたあと、例えば死後3年たったあとに花を添えてくれるのは恐らくは家族しかいない。

これは一つの例であって、別に花を添えてほしいとか、添えるべきだという話をしたいのではない。また僕自身としては花を添えられようが、添えられなかろうがそんなことはどうだっていい。ここで言いたいのは、死んだ後に自分の全てがどこに収まるのか考えるのは一つの尺度として有効なのではないかということである。僕の死は、僕の全存在と行為全ては、関係性は、運動は、ほぼ全てが消費社会の中に、少しだけが血縁に収斂される。結局のところ、消費社会の継続を支えるちっぽけな一部と血縁にしか収まらないのである。

一時が万事なのだが、例えば先の選挙に置き換えるとこのような見方ができる。
「菅谷さん、応援してますよ」と友人が、あるいは同志が言う。しかし、これはあくまで言葉でしかない。選挙に勝つ人間、勝つ組織の応援では、金を出す、選挙区に住む、あるいは投票権のある人間に対してポスティング、電話がけ等で投票へ働きかける、こういったことが行われている。そこでは実際の何かしらの力が応援と呼ばれる。

人や団体により応援を支える思想は異なるのだろう。しかし、その思想には僕や僕達よりも確かな力がある。どのような人や団体であっても、それは僕達よりも遥かに強固な意志を持って遂行されている。そして、一時が万事でこれまでの菅谷という自己を延長した先には同様の困難が待ち受けている。

※ 大事なことなので断りを入れると、選挙の例において全ての人が上記のような態度であったわけではない。僕は選挙で実際の力を貸してくれた多くの人に深く感謝しているここでの話は、僕の中に選挙で負けるべくして負ける思想があったという総括になる。

  
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今、あるいはこれまで、僕が、僕達が信じてきた思想とは何なのだろうか。
僕たちは、多かれ少なかれ、好き勝手自由に生きる、ダメでも働かないで自由に生きる、こういった思想の延長線上に身を置いて生きてきたのではないかと思う。この自由に、世の中を変える熱量が含有され、革命後の世界があるのではないかと考えてきた。自由を熱狂的に支持してきた。

しかし、現在僕にはこの思想の先に見えるのは革命後の世界ではなく、沢山の、非常に多くの屍である。革命後の世界に到達できるのは、この思想を正しく読み取る、一定の能力を持つという条件を満たす個人のみであるが、大抵の個人はこの条件を満たせない。そのため大勢は支配的な思想に回収される。一部の者がメディアや何かを媒介にして見せてくれる革命後の世界を遠くから見てあたかも自分もその一部になったかのように、自由を高らかに掲げて「余暇の充実」を一生懸命に行う。日常は早く過ぎ去るのを待つだけの時間となる。苦しくて辛くて孤独で、誰も花を添えてくれない個人の自由を、個人の日常をばらばらに生きていく。

現在熱狂的に支持されている自由が何に依拠しているのかというと、組織の否定的な立場からの批判(ときに感情的な拒絶)である。一般的には家族や会社を、活動家の場合は既存の左翼を批判・否定し、その先に導き出されると想定される自由を支持する。組織の否定的な立場からの批判の過程で、責任や意思や、あるいは使命といったものは放棄されてしまった。その結果として、約束されたはずの自由も革命後の世界も実現困難なものとなっている。

あまり自分の現場から離れたことを述べるのは好きではないが、この問題をもう少し拡大するとこのような考えもできる。
今年国会前における反安保のデモ・集会が盛り上がった。この運動において、参加者の大半がどこにも属さず、自分の意志で抗議行動に参加していると見られていることが非常に好意的に捉えられていた。しかし、これは手放しに喜べて、権力の暴走を止める力を内包するものなのだろうか? 比喩的にも、具体的にも、生きるための武器も備蓄もオルタナティブな共同体も何も持たない剥き出しの自由な個々人が、1日の数時間だけ「個人の自由な意思」で集って後は別々の日常に帰っていく。これは「権力の暴走」を意識的に遂行しているであろう非常に強固な組織よりも力を持てるのだろうか。

あるいは、これまで熱狂的に支持されてきた自由は負けたのではないだろうか?

今後、僕は組織を肯定的な立場から批判を進めようと思う。その試みの中で進めなければならないのは、日常(具体的には労働か、家庭と言われるもの)を革命することである。一部の限られた人だけの日常でも、その他大勢への余暇の提供でもない、共に働き、共に住み、共にご飯を食べる、共に生きていく。この試みを肯定的に組織を批判する立場で実践していく。
そして、その先に今よりも豊かで、今よりも自由な革命後の世界を目指す(最もここで考えられる「自由」というのは、恐らくは今希求されている自由とは違うものとなるだろうと思う)。別々でバラバラでその中の一部が、見せてくれる世界に酔ってはいけない。望む者全員が参加できる、団結できる、そして人を豊かに自由にする、こういった試みを進めたい。

  

27歳、僕は自殺しなかった。以降、しばらくは自殺について積極的に検討することはないと思う。とはいえ、望もうが望むまいが、死は近づいてくるし、僕はそれを恐らくは一般的なレベルよりも強く意識している。
自分の生命を何に賭けるのか、今後どれだけの僕の中の大切なものの喪失を見つけたとしても、僕はこちら側に賭けて生きていく。そしてささやかな大切なものたちが、もう一度戻ってくるのではないかと願いながら生きていく。

この前りべるたんの現代表と副代表には「幻聴じゃないですか」と言われたけれど、僕には時代が変わる音が聞こえている。歴史は進みつつあり、僕は歴史を進める側の一部として生きて死にたい。

(これを総論として時間あれば各論書きます(><))

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11.21映画「素人の乱」上映会のお知らせ

こんにちは、日々同志から文章が劣化したと批判され自信を失う28歳の菅谷です。

今回は映画上映会のお知らせだ!

今回は映画上映会のお知らせだ!

 

芸術の秋、11月21日に上映会を開催します。上映作品は、ずばり『素人の乱』! 今や知らぬ者はほぼいない素人の乱の2006年から2007年の活動を追ったドキュメンタリー映画です。映画の解説はこちら

 

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素人の乱は、僕が学生時代に心を射抜かれるようにグググッときていたムーブメントで、本も読んだしデモにも行った。高円寺に行くたびに、高円寺で何かあると聞くたびに何かが起こるんじゃないかというワクワクした気持ちになった。当時、少なくとも僕にとっては暗くて怖くて近寄りたくなくて出来るだけ関わりたくないものだったデモや活動家のイメージを革命的に変えた。
多分、僕たち世代で学生運動をした大体の人は、大なり小なり、素人の乱の、そして首謀者である松本哉さんの影響を受けていると思う。

学生時代に強く影響を受けたムーブメントが、今どのように見えるのか。これからどんなことができるのか。
映画を見てこれからを模索していきましょう。

ドキュメンタリー映画「素人の乱」
11月21日19時半~「たまにはTSUKIでも眺めましょ」にて
池袋西口から徒歩10分くらい! お店はこちら 
1000円 食べ物飲み物持ち込み自由

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