そうだ、東北に行こう! 9月8or9東北行き格安車のお知らせ

こんにちは、初対面の人に「話してみたらまともな人で安心した」と評判の菅谷です。

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トイレの似合うまともな30歳

突然ですが切募です!

9月8日の夜か9日の朝に東北に行きたいというナイスメンorウーマンを探しています。
僕は岩手県の花巻というところまで用事があっていくのですが、一人で行くと高くなっちゃうので一緒に乗って行ってくれる人を探しているのです。

花巻の途中(仙台〜盛岡の間くらい)であれば途中下車も柔軟に対応します。乗車場所も結構融通効かせられます。出発時間も8日の夜から9日の9時くらいまで選び放題です。お値段なんと3000円!! ちなみに10日午前現地発でよければ東京まで乗せて帰ってきます。

週末で3000円で東北行けるのは多分最安値です。この機会にぜひぜひ東北観光よろしくですm(__)m

※3人まで乗れますので、お友達・恋人お誘い合わせで東北に行けます。
※車内、適当に自由に過ごしてて大丈夫です。寝ててもいいです。

ご興味ある方適当に連絡くださいー。

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だいたい結婚の解消について

昨年9月、私は櫨畑敦子さんとのだいたい結婚を解消しました。
この事はある種のタブーというか、相手のあることなのでなかなか言葉にしにくいところもありました。そのため「これが新しい社会の家族の形だ」的な勢いで大々的に始めたにも関わらず、終了については細々とした発表にとどめていました。

先日、櫨畑さんとお会いしていくつかの約束を元に(相手を攻撃しないなど)、ちゃんと公表しようという話になりました。私の側からの、だいたい結婚の反省を書き記します。

【だいたい結婚前の菅谷の状態】
櫨畑さんとのだいたい結婚の少し前の私は、当時は無自覚でしたが精神的には相当消耗した状態にありました。友人に会うと「片道切符で海外に行ってどこかの町の名もなき道で餓死するのでお金を貸してほしい」とよく話していました。今になって思うと、新しい社会とか新しい家族とか新しい結婚とかをとてもではないが実現できない精神状態です。
この精神状態は、櫨畑さんと関係を結んだあとも続きます。むしろ悪化します。今度は「生命保険をかけて自殺するしかない」と友人に話すようになりました。実際に始発で富士の樹海を視察しに行って「悪くないなぁ…」と感想を抱いたりしていました。
こういった当時の私の精神状態から何を申し上げたいのかと言いますと、櫨畑さんには多大な負担をかけてしまったであろうということです。この点を深く反省しています。

【だいたい結婚の振り返り】
だいたい結婚とは何だったのかというと今振り返りますと、これは私視点から見た時には理想の持ち寄りです。これは、その頃の20代後半の私の一貫した態度であり、今になって思うと私を病ませた原因です。
当時私は、共同運営実験スペース りべるたんというヘンテコシェアハウスのほぼ代表としてやっていました。りべるたんという場所も運営員のボリュームゾーンが学生だった頃は理想の持ち寄りの場所でした。しかし、学生が終わると同年代の皆さまはどんどん就職していきます。当時の私は「無批判に就職をすることは権力に半分首を取られること(=全然面白くない超最悪なこと)」と本気で思っていました。就職して働いて不平不満を述べるりべるたん周辺人を見る度に、「無批判に就職できるなら無批判にりべるたん畑を耕せ!」「無批判に住民票を移して選挙協力しろ!」と思っていました。理想を持ち寄ることがなくなり、私は一人で理想の押し付けをするようになっていました。
だいたい結婚は、新しい理想の持ち寄りでした。「ほら、理想を持ち寄ってもちゃんと新しい社会を家族を結婚をつくっていけるんだよ、そういう風にやっていこうよ」ということを、現実に対して高らかに幸せに見せたいという思いの現れでした。

【だいたい結婚の総括】
理想の持ち寄りでも、あるいは理想の押し付けであっても、自分自身を他者を幸せに出来る人はいます。しかし、私自身はもっと現実的な人間として、現実をすり合わせて生きていった方が自分自身も他者も幸せにできるだろうということが、個人的な総括です。
ただ、だいたい結婚的なものは、まだ可能性があると思います。特に二者間で問題が発生した時に第三者が仲介するという方法は、過去に祖父母かあるいはご近所さんかが担っていたであろう役割を十二分以上に果たすかもしれません(当時の大阪組のケアの方はわかりませんが、東京のえらいてんちょうさんは寿命を縮めてしまったのではないかと思うほどに親身に考え行動してくれていました。感謝しています)。

【終りに】
私は、根本的にはジメジメネチネチした人間なので、総括みたいなことを書くといつも暗めの文章になってしまいます。文章は暗いでしょうが、櫨畑さんと一緒にいて楽しいこともたくさんありました。バイクで走った大阪の道、たくさんの荷物を運んだ東京の道、北は青森、南は五島列島まで行ったこと、どれも楽しかった思い出です。今、櫨畑さんが元気に生活していて本当に良かったと思います。

また東京か横浜か大阪でゆっくり話しましょう。

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役に立つかもしれない自営実験の経過リポート

こんにちは、横浜の山の方まで友人の皆さまが時々遊びに来てくれて嬉しい菅谷です。

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横浜の山の方の生活で一番心を通わせている店舗菜園のお野菜たち。とても愛おしい。

早いものでお店を始めてからもうちょっとで三ヶ月経ちます。菅谷の目標の一つは自営業の割合をいくらかでも増やすことです。たかだか三ヶ月くらいで何を言ってるんだと思われる方もいるかもしれませんが、されど三ヶ月。この間気づいた他の方の背中を押すかもしれない自営おススメポイントをいくつか紹介します。

1 店を開いていれば物が売れる。
私はこれまで小規模自営業・自営のようなもので

・日本語を菅谷しか話せないネパールカレー屋のオープニングスタッフ
・熱烈交流スペースあかね
・おうちカフェ
・リサイクルショップ落穂拾
と関わってきました。

現在の自分のリサイクルショップも合わせて計5店舗の経験としては
① その場所がお店として一般的に認知されている。
② 人が望むものと大きく乖離していない。

この2つの条件を満たせば物は売れます。リサイクル屋でなくても、八百屋でも、花屋でも、楽器屋でも、駄菓子屋でも、服屋でも、物は売れるでしょう。要は物件を借りて物を並べれば後はゴロゴロしていたとしても、手元にいくらかはお金が入ってきます。初期費用というハードルはありますが、最初から大きく構えずに小遣い稼ぎ程度で適当な店を始めちゃうのも一つの手かもしれません。

2 毎日開ける必要はない、兼業でもOK
私はお店をやりつつ、週に一度か二度は障がい者介助の仕事をしています。介助の仕事をせずに、リサイクル業に専念すればもっと儲かる可能性もあります(逆もまた然りですが)。ただお店とは別に金銭を確実に確保できるというのは精神衛生上は非常に良いです。兼業によって最低限家賃を払う程度の金銭は毎月確保されるわけです。

もしかしたら今後は半自営半Xくらいが始めやすいのかもしれません。もはやみんなが終身雇用・正社員という時代ではありません。いくらかは外で確実に賃金を得て後は自分自身の生活を生存圏を陣地を作っていく。要は生活できればいい、お店が潰れてしまわなければいいわけですから、週5週6週7とお店を開ける必要はありません。というか、こんなに多くの店舗が24時間365日の勢いで店を開けてかつ懇切丁寧な接客を人にさせている方が異常であり、そんなものはNO!だと生活で意思表示しましょう!

3 これでいいんだ!と思えるメンタル
お店をやっていると、ほぼ全てが自分の判断、自分の責任になります。物が売れない、ミスをした、クレームついた等々あります。対応の仕方はその場面場面であるかと思いますが、何かがあっても「これでいいんだ!」と思えるか、これが重要です。これは意外に大きくて、そう思えないとお店やっても楽しくないかもしれません。
「最悪路頭に迷うだけ」「最悪200万くらい借金するだけ」なので、その最悪が笑って許容できるレベルなのか、もしもそうなったらそれも楽しいと思えるかどうか、これ超重要です。世の中には様々な幸福があり、自営よりも雇用されている方が幸福なことは当然あります。雇用より自営の方が万人を幸せにするということは絶対にありませんので、ここの判断はちょっとだけ冷静にした方がよいでしょう。

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あとは暇さえあればめぞん一刻読んでます。高橋留美子の全盛期! おススメ!!

以上、横浜の山の方のリサイクルショップからでした。
今後も実験の報告をできるよう潰れないようにゆるゆると頑張ります。

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近況報告〜リサイクルショップはじめました〜

ご無沙汰しています、菅谷です。

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ゴキブリのように這い、ハエのように舞い、生きています。

4月上旬から横浜の山の方でリサイクルショップをはじめました。前職リサイクルショップ落穂拾で学んだことを活かして、知らない土地で試行錯誤しています。東京からわずか40キロ程度しか離れていないとはいえ土地が変わると、求められること喜ばれることに変化があって面白いです。余談ですが、全国展開しているチェーン店の大体を僕はあんまり好きではないですが、全国どこでも一定以上人に求められ喜ばれるという仕組み、あれはなかなか凄いなと改めて感心しています。

週に一度時々二度、学生時代から続けている障がい者介助の仕事に出る以外は、大体リサイクル業をしています。お仕事が落ち着いたら、近場の温泉に行きます。想定よりも幾らかの儲けが出て気分がいい日は帰りにフラッと近所の飲み屋に行ったりもします。知らない土地で一人というのはなにげに遥か10年ほど前に東京に出てきた頃を思い出します。10年の月日が経っても好奇心は衰えておらず(むしろ増加?)、その辺をうろちょろして楽しんでいます。

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本邦初公開! 最近菅谷はこういうところにいます。

当面は、自営収入月10〜30万円、食料自給率30%、自炊率70%ライフを目指します。わたくし菅谷も間もなく30歳になりますし、脛に傷も増えてきましたが、それでもなお、より自由でより豊かでより幸せな生活を実現できることを信じて疑いません。20代半ばから「住まい方」について精魂込めて実験して、相応の成果と反省があります。今後は「働き方」について、知らない土地でほぼゼロから大体一人ではじめてみます。ゆくゆくは、「住まい方」と「働き方」を合わせられたら面白いかもしれません。とはいえ、あまり遠くばかりを見ず、まずは毎日コツコツお店がつぶれちゃわないように頑張ります。

 

以上、近況報告でした。

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りべるたん5年の総括、我々は何に結集し得るのか

りべるたんのホームページに、りべるたん5年間の総括を公開しました。

こちらになります。

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リサイクルショップ落穂拾 副店長業を休職しました。

わたくし菅谷は、副店長を務めていたリサイクルショップ落穂拾を休職しました。

リサイクルショップ落穂拾は、昨年10月に始動した運動です。宮内春樹君からのオファーで当初プロジェクトメンバーは、僕と宮内君のみで豊島区千早に一号店をオープンさせました。1年間、私は落穂拾において副店長業を務めました。

1年の間に夢のように楽しい時間がありました。
落穂拾がスタートしたのは、私にとっては共同運営実験スペースりべるたんが、というか居場所運動全般が、長期的には厳しいものになるだろうという見立てが確信めいたものになり、さらには豊島区議会選挙に落選した後です。落穂拾は今後この世界でどのように生きていくべきなのか、どんよりと思案していた私にとってひとつの解答になりました。

店を借りる、店に住む、労働を軸とした共同体をつくるといった取り組みは、働くことは苦痛である、自分たちで商売をするのは難しいと思っていた私の考えを180度変えました。毎日今日はどんなことが起こるのだろうとワクワクし、大きな現場仕事が完了した後には達成感があり、そして確実に陣地を拡大しているという手応えがありました。我々は1年の間に、系列5店舗を抱える拡大を達成しました。これは大きな収益を望めないシェアハウス運動では、不可能な拡大です(もちろん宮内君の商才が拡大における大きな要因の一つであり、誰がやっても上手くいくということはないでしょうが)。我々は豊島区内に交番よりも多くの店を出そうと区内36店舗以上を目標にし、日々邁進しました。寝て起きて働き、時には寝ないで働きと、ALWAYS 三丁目の夕日のように明日は今日よりも良い日になると、無我夢中に働きました。

 

落穂拾の休職を決意した理由は大きく以下の2点になります。

①自分の身体でもっと落穂拾的な方向を模索したいと思ったこと
リサイクルショップ落穂拾は、捨てられる物・不要品をもう一度価値にする(使う・売る)という動きが仕事のメインとなります。依頼を受ければ、1Kのアパートから一軒家まるまるゴミ屋敷まで捨てられる価値物を蘇らせるために向かいます。
最初は右も左も全くわからない状態でしたが、まだまだ未熟とはいえ必要な技能が日々の労働の中で習熟していくことを感じました。そして、習熟した技能がどの程度のものなのか自分の力で試したい、深めてみたいと思うようになりました。独立心の芽生え、これが休職の一つ目の理由となります。

②自分は共同体に離れるべきである、いたくないと思ったこと
1年の間に周囲の環境や関係性に変化がありました。その変化の中で、自分はこの共同体を離れるべきである・いたくないという2つの感情を持つようになりました。そういった感情が芽生え始める中で、私は落穂拾の仕事に以前のような熱量を持って向き合う事ができなくなっていきました。
通常の会社では給与によって、こういった気持ちを抱いたとしても仕事に向かわせているのでしょうが、我々の場合は無給(あるいは相当程度の薄給)と現物支給がベースです。情熱や理想や方針の一致や共同体への愛といったものが機能しなくなり、賃労働を含むその他の行動の方が優先度が高くなっていきました。とはいえ、労働において無給(あるいは相当程度の薄給)自体は必ずしも悪いことだとは私は思っているわけではありません。この点は今後も要検討です。

 

本件は私の中ではだいたい結婚の解消、家族のことなど、いくつかのことが絡んでいます。現状において私はその全てを総括しきれていません。休職願を出したのが九月上旬ですので、本来であればもう少し早いタイミングで文章にできればよかったのですが、時期が遅くなってしまったのはそのためです。未だ満足な総括はままならず、これから、どうする・なにするとはすぐに言えないのが正直なところですが、少しずつ休みつつ模索を進めます。その中で、落穂拾の同志とまた重なることもあるだろうと思います。より発展した形で、そのような日々を迎えられるようにしたいというのが今の思いです。

最後に、落穂拾において私を支え励ましてくださった皆様に深く感謝します。何名かの誠実な助言を私は忘れることはないと思います。正しい選択、より良い行動なのかは現時点では判断できませんが、「ありがとう」と胸を張ってお礼を言えるように精進します。

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シェアハウスの時代の総括と今後の展望(丸山寛氏の闘い)

シェアハウスの時代と今後の悲観的な予測

 2010年代前半はシェアハウス・シェアスペース「運動」の時代だった。

 

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情況2016年4/5月号より一部転載

 同時多発的に日本の津々浦々で、20代から30代の若者が一軒家やマンションの一室や長屋等を賃借し、その場所のルールや理念を自分たちで定め、自分たちのお金でその場所を維持する自治空間を創設した。大学や会社や家族や既存の社会のあり方に対して、反抗し、創造する居場所作りを行った。例えば、東京の私たちは大学の自治の喪失と対峙し「自主生存」「異文化交流」「文化発信」を理念とする自治空間 共同運営実験スペースりべるたんを2012年に創設した。同じく東京の渋家(しぶはうす)は、アート系の若者が主体となり「家を24時間365日解放しておくことで新たな関係性を生み出し、それを多くの人と共有することで「物語」を生産」(渋家HPより)することを目指す活動を2008年より展開している。

 同じように何かしらの志向性を持つシェアハウス・シェアスペースが、大阪では中津の家、京都ではファクトリー京都、福岡ではBUMBO福岡(2016年閉鎖)、また全国に拠点を持つリバ邸など、若者を中心にあらゆる世代、年代が自由に集い、既存の社会に対するオルタナティブを目指す運動が2010年前後、申し合わせたかのように日本全国で展開された。

 

 多数の同業者の、さらには自団体の名前を上げたうえで申し訳ないが、私はこれまでに展開されたシェアハウス・シェアスペース運動の多くは、近い将来に頓挫すると思っているし、あるいはそれは既に始まっていると思っている(後述するように全てではない)。シェアハウス・シェアスペースの多くは大学及び社会から、モラトリアムを謳歌する場所が減少したことによる代替物としての機能が大きい。若者のモラトリアムはいずれ終わる。その時にモラトリアムの代替物としてのシェアハウス・シェアスペースは死ぬ。もしくは、モラトリアムとは別のところに問題意識を持ち変革の闘いを続けようとする創設者やコアメンバーと、モラトリアムを抜け出すこともせず社会と折り合いをつけて働くこともせずに、何らの反抗や創造もできない者、この2グループだけが残る。これは中々に悲惨な状況で、直近の歴史の中にもそのような状態に陥ってしまっている運動はいくつも見ることができる。

 

 ではどうすれば良いのだろうか。

 本稿においては、現在のムーブメントに先立って同様の闘いを展開した 谷中生産技術研究所(以下、谷中技研)※注の闘いを紹介し、検討を進める。谷中技研とは、私達より一足先の2001年の東京大学駒場寮の解体を受けて、大学の外に「自治」を創造する試みとして駒場寮に住んでいた東大生によって進められた運動である。シェアハウスや住み開きという概念がまだ世に根付く前のことで、この動きはかなり早く、また珍しい。この試みと生活ぶりはテレビ朝日のバラエティー番組「銭形金太郎」にも取り上げられたという。

 当時の駒場寮を失った東大生たちは西日暮里駅から徒歩10分ほどのところの一軒家を賃貸し、5部屋の個室に24時間開放されたフリースペースを持つ、それこそ縮小された自治寮のような運動を展開した。

 しかし、現状において谷中技研の活動はほぼ停止してしまっている。本稿においては、この場所で最後まで闘いを続けた谷中技研のメンバー丸山寛氏から話を聞くことで、彼の誠実で真摯な闘いを未来につなぐことを目指す。現場で悩み苦しみ喜び闘いを継続している一人でも多くの「同志」の活路が開かれることを願い、本稿を進める。

 

谷中技研における丸山氏寛の闘い

 

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友人であり先輩であり同志である丸山氏

 丸山氏は、2006年〜2007にかけて谷中技研に関わり始めた。丸山氏は東大生というわけでなく、谷中技研に関わる前はバックパックを背負い世界を旅していた。旅が一段落し日本に帰国した折に知り合いに紹介され谷中技研を訪れ、以降約10年ほど関わることになる。

 先にも触れたように谷中技研は東大駒場寮の解体を受けて当時の東大生が創設したスペースだ。しかし、丸山氏の関わり始めた2006年ころには、「東大生のスペース」からの変容がはじまっていた。谷中技研は創設から5年以上がたち、現役の東大生はゼロ、多くのメンバーは就職などで、谷中技研の理念とは離れた場所に日常を置くようになっていた。丸山氏によると、当時の東大生にとって谷中技研は「思い出物件」になってしまっており、時折訪れるだけの場所になっていたという。谷中技研も離れ、谷中技研の掲げた理念とも離れた生活を創設メンバーの大半が送るようになっていた。

 なぜ、東大生たちは谷中技研を離れたのか。丸山氏はこの理由について、「東大(大学)を出ていると、どこかで食える道を見つける。だからすぐに実社会にいける」と実社会(今、社会の中で常識として受け入れられている制度や雇用や労働や生活)への移行を理由にあげる。社会を変革するために掲げた理想や理念を遂行する生活をしなくても、違和感や矛盾ある社会において十分に食っていける、むしろその方が豊かな生活ができる。掲げた理念はどこかに置き去りにされ、みんなで作った場所は思い出の一つになる。

 丸山氏が入居を決めたのは、東大駒場寮の学生たちが「学生」の時期を終え、「社会人」としての選択を終えようとしていた2007年のことであった。丸山氏が入居した段階で、東大の卒業生が一名いるのみで、後の居住者は谷中技研の理念の一致による居住ではなく、知り合いのつてで住み始めた家賃を払うだけの居住者が大半になっていた。そして、丸山氏が入居して程なくして最後の一名の東大卒業生も「田舎に帰る」という理由で、谷中技研を後にする。他の居住者にとっては、谷中技研は外で働いて寝に帰る一般的な家と大差ない場所であり、生活を賭してまで谷中技研の理念を遂行しようという気概はない。谷中技研はそれまで毎年選挙によって塾長を選出し、月に一度谷中技研の運営を話し合う会議も開かれていた。しかし、2007年以降は選挙も会議も機能しなくなり、丸山氏が2015年まで実質の塾長(丸山氏自身は管理人と呼んでいる)を務めることになる。

 

 なぜ丸山氏は、谷中技研を実質的に引き継ぎ、その任務を約10年も継続したのだろうか。丸山氏はその理由として「谷中技研が好きだったから」と述べている。谷中技研は毎月4万円の家賃は発生するものの、理念を忠実に遂行すればお金をほぼかけずに生活できる。誰を呼んでもいい、24時間開放された空間がある。丸山氏は、谷中技研の場所と理念の遂行において、実社会とは別の生活を発見した。

 丸山氏は谷中技研において、いかにお金を使わずに人を呼んで交流できるかの追求を始める。私自身、谷中技研で生活をしていた丸山氏を何度も訪ねたことがあるが、彼の生活に非常に大きな影響を受けた。丸山氏は必要最低限しか賃金労働をしない。私が頻繁に訪ねていたころは、早朝の警備員の仕事をしていて朝の5時くらいに仕事に行き、昼前には帰ってきていた。そして丸山氏は、家に余っている大根でも何でも捨てないで持って来いといい、谷中技研に集まった食べ物を魔法(彼は加工と呼んでいる)のように調理する。また、丸山氏自身も食材を集める名手で、100円を切る肉野菜魚等々をどこからともなく買ってきて、これまた絶品の料理に変える。そして、丸山氏は谷中技研を訪れた人と美味しい料理を共に食べつつ交流をする。一度、私が業務用スーパーの100グラム100円を優にを切る安い肉を持ち込み「これどうします?」と相談したときに「こういった物をどうやって美味くするか考えるのが面白いんだよ」と楽しそうに笑ったのを今でも覚えている。

 

 しかし、丸山氏の試みを面白がる人はいても、丸山氏と同様の生活に移行しようとする者は現れない。丸山氏の孤独な戦いは続く。この点が丸山氏を悩ませた。丸山氏は、丸山氏は別の社会の在り方として「来れば飯が食える場所」を提唱し、具体的なイメージとしては、311後の被災地を挙げている。丸山氏は被災地にボランティアに行った際に衝撃を受けたという。「みんな体育館にごろ寝。食べ物も味噌汁とご飯しかない。でもゲラゲラ笑って助け合いながら過ごしている。同じ場所に雑魚寝して、同じ味噌汁とご飯、これで幸福に過ごせる。災害ユートピアと言われるかもしれない。しかし、ユートピアのような二ヵ月、三ヵ月が確かにあった」と述懐する。

 

 丸山氏は、実社会とは別の在り方を提唱する試みを谷中技研において約10年間続けた。

しかし、丸山氏の魅力的な試みは周囲に賛同され、拡大を勝ち取るには至らなかった。丸山氏の「生活」が「社会」になったとは必ずしも言えない。丸山氏は、この理由として一つに年齢をあげる。丸山氏は2007年において30代半ば。学生と学生以降では認識に大きな違いが生まれる。東大生が谷中技研を去ったように、実社会の主軸たる30代40代には、丸山氏のメッセージが届くことは少なかった。そして、丸山氏は「実社会の方に魅力がある。何だかんだでみんなそこまで困っていない。実社会がどんなに苦しい場所でもこちら側に来ようとは思わない」と今ある社会の強大さを話す。

 

 また、丸山氏の困難はこれだけに留まらなかった。丸山氏の生活は実社会からの攻撃の対象にもなった。丸山氏が、食材を仕入れる際に数円、数十円単位まで気にすること、人よりもわずかしか賃金労働をしていないこと、24時間開放のスペースを来訪者の使い方を注意したこと等々で、実社会の認識から傷つけられることは少なくなかった。

 私も丸山氏と同業者として実社会の攻撃について考えることが度々ある。基本的に進学や就職など人生の新たな場所には一人で進む。住居も血縁者以外と一緒に住むことはほぼない。血縁者との同居以外では大半が一人暮らしとなり、家電や家具や物の大半を私有する。衣食住は賃金労働で個別に与えられるお金で賄い、その個人の領土やルールに他者が介入することはない。

 一方、丸山氏の試みや今ある多くのシェアスペース・シェアハウスの根底にあるのは集の試みだ。場所や物は個人のものでなく、みんなのものになる。当然、発生する問題もみんなのものであるし、またそもそもにおいて個の生活では発生しない問題が大半である。集の発想による、みんなの場所、みんなの物、みんなの問題、これと実社会の個は相性が悪い。シェアスペース、シェアハウスはレストランやホテルのように誰かが料理を運んでくれる、皿を洗ってくれる、掃除してくれる、警察や事務員のように誰かが面倒を解決してくれる、実務を処理してくれる、こういった事は絶対にあり得ず、構成員の誰かが時間を割いて対応している。この事がなかなか理解されない。さらには、そもそも場所や物があって当たり前、大事なものだと扱わなれない事もままある。これらの認識は時に非常に運営を苦しめる攻撃になる。

 

 現在、丸山氏は谷中技研を離れ横浜にて新しい闘いをはじめている。谷中技研を離れた理由については「やれることは全てやったから」と話す。谷中技研は、丸山氏が離れた現在、意志を継ぐ者は途絶え、24時間解放のフリースペースも制限がかかっている。

 その上で丸山氏は谷中技研という場が残っている意義を語る。「今後、さらに年齢を重ねて境遇の変わる人が出てくるかもしれない。例えば失職して何社受けても決まらない。そんな時に僕を見ていた人が僕の生活を思い出して、変化があればそれでいい。『そういえば、あいつはお金を使わないで人を集めて生活していたな』と。その時のために、場さえ残っていればいい」。

私は、友人であり、先輩であり、一人の師である丸山氏が谷中技研という場所で試みたこと、その場所を残したこと、丸山寛の10年間に及ぶ素晴らしい「仕事」に最大限の敬意を評したい。

 

注 スペースの総称は漢塾と呼び、その中で丸山を主体とした活動を谷中技研と呼ぶ。本稿では谷中技研と統一して扱う。

 

※ 以降は情況2016年4/5月号にて。

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