シェアハウスの時代の総括と今後の展望(丸山寛氏の闘い)

シェアハウスの時代と今後の悲観的な予測

 2010年代前半はシェアハウス・シェアスペース「運動」の時代だった。

 

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情況2016年4/5月号より一部転載

 同時多発的に日本の津々浦々で、20代から30代の若者が一軒家やマンションの一室や長屋等を賃借し、その場所のルールや理念を自分たちで定め、自分たちのお金でその場所を維持する自治空間を創設した。大学や会社や家族や既存の社会のあり方に対して、反抗し、創造する居場所作りを行った。例えば、東京の私たちは大学の自治の喪失と対峙し「自主生存」「異文化交流」「文化発信」を理念とする自治空間 共同運営実験スペースりべるたんを2012年に創設した。同じく東京の渋家(しぶはうす)は、アート系の若者が主体となり「家を24時間365日解放しておくことで新たな関係性を生み出し、それを多くの人と共有することで「物語」を生産」(渋家HPより)することを目指す活動を2008年より展開している。

 同じように何かしらの志向性を持つシェアハウス・シェアスペースが、大阪では中津の家、京都ではファクトリー京都、福岡ではBUMBO福岡(2016年閉鎖)、また全国に拠点を持つリバ邸など、若者を中心にあらゆる世代、年代が自由に集い、既存の社会に対するオルタナティブを目指す運動が2010年前後、申し合わせたかのように日本全国で展開された。

 

 多数の同業者の、さらには自団体の名前を上げたうえで申し訳ないが、私はこれまでに展開されたシェアハウス・シェアスペース運動の多くは、近い将来に頓挫すると思っているし、あるいはそれは既に始まっていると思っている(後述するように全てではない)。シェアハウス・シェアスペースの多くは大学及び社会から、モラトリアムを謳歌する場所が減少したことによる代替物としての機能が大きい。若者のモラトリアムはいずれ終わる。その時にモラトリアムの代替物としてのシェアハウス・シェアスペースは死ぬ。もしくは、モラトリアムとは別のところに問題意識を持ち変革の闘いを続けようとする創設者やコアメンバーと、モラトリアムを抜け出すこともせず社会と折り合いをつけて働くこともせずに、何らの反抗や創造もできない者、この2グループだけが残る。これは中々に悲惨な状況で、直近の歴史の中にもそのような状態に陥ってしまっている運動はいくつも見ることができる。

 

 ではどうすれば良いのだろうか。

 本稿においては、現在のムーブメントに先立って同様の闘いを展開した 谷中生産技術研究所(以下、谷中技研)※注の闘いを紹介し、検討を進める。谷中技研とは、私達より一足先の2001年の東京大学駒場寮の解体を受けて、大学の外に「自治」を創造する試みとして駒場寮に住んでいた東大生によって進められた運動である。シェアハウスや住み開きという概念がまだ世に根付く前のことで、この動きはかなり早く、また珍しい。この試みと生活ぶりはテレビ朝日のバラエティー番組「銭形金太郎」にも取り上げられたという。

 当時の駒場寮を失った東大生たちは西日暮里駅から徒歩10分ほどのところの一軒家を賃貸し、5部屋の個室に24時間開放されたフリースペースを持つ、それこそ縮小された自治寮のような運動を展開した。

 しかし、現状において谷中技研の活動はほぼ停止してしまっている。本稿においては、この場所で最後まで闘いを続けた谷中技研のメンバー丸山寛氏から話を聞くことで、彼の誠実で真摯な闘いを未来につなぐことを目指す。現場で悩み苦しみ喜び闘いを継続している一人でも多くの「同志」の活路が開かれることを願い、本稿を進める。

 

谷中技研における丸山氏寛の闘い

 

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友人であり先輩であり同志である丸山氏

 丸山氏は、2006年〜2007にかけて谷中技研に関わり始めた。丸山氏は東大生というわけでなく、谷中技研に関わる前はバックパックを背負い世界を旅していた。旅が一段落し日本に帰国した折に知り合いに紹介され谷中技研を訪れ、以降約10年ほど関わることになる。

 先にも触れたように谷中技研は東大駒場寮の解体を受けて当時の東大生が創設したスペースだ。しかし、丸山氏の関わり始めた2006年ころには、「東大生のスペース」からの変容がはじまっていた。谷中技研は創設から5年以上がたち、現役の東大生はゼロ、多くのメンバーは就職などで、谷中技研の理念とは離れた場所に日常を置くようになっていた。丸山氏によると、当時の東大生にとって谷中技研は「思い出物件」になってしまっており、時折訪れるだけの場所になっていたという。谷中技研も離れ、谷中技研の掲げた理念とも離れた生活を創設メンバーの大半が送るようになっていた。

 なぜ、東大生たちは谷中技研を離れたのか。丸山氏はこの理由について、「東大(大学)を出ていると、どこかで食える道を見つける。だからすぐに実社会にいける」と実社会(今、社会の中で常識として受け入れられている制度や雇用や労働や生活)への移行を理由にあげる。社会を変革するために掲げた理想や理念を遂行する生活をしなくても、違和感や矛盾ある社会において十分に食っていける、むしろその方が豊かな生活ができる。掲げた理念はどこかに置き去りにされ、みんなで作った場所は思い出の一つになる。

 丸山氏が入居を決めたのは、東大駒場寮の学生たちが「学生」の時期を終え、「社会人」としての選択を終えようとしていた2007年のことであった。丸山氏が入居した段階で、東大の卒業生が一名いるのみで、後の居住者は谷中技研の理念の一致による居住ではなく、知り合いのつてで住み始めた家賃を払うだけの居住者が大半になっていた。そして、丸山氏が入居して程なくして最後の一名の東大卒業生も「田舎に帰る」という理由で、谷中技研を後にする。他の居住者にとっては、谷中技研は外で働いて寝に帰る一般的な家と大差ない場所であり、生活を賭してまで谷中技研の理念を遂行しようという気概はない。谷中技研はそれまで毎年選挙によって塾長を選出し、月に一度谷中技研の運営を話し合う会議も開かれていた。しかし、2007年以降は選挙も会議も機能しなくなり、丸山氏が2015年まで実質の塾長(丸山氏自身は管理人と呼んでいる)を務めることになる。

 

 なぜ丸山氏は、谷中技研を実質的に引き継ぎ、その任務を約10年も継続したのだろうか。丸山氏はその理由として「谷中技研が好きだったから」と述べている。谷中技研は毎月4万円の家賃は発生するものの、理念を忠実に遂行すればお金をほぼかけずに生活できる。誰を呼んでもいい、24時間開放された空間がある。丸山氏は、谷中技研の場所と理念の遂行において、実社会とは別の生活を発見した。

 丸山氏は谷中技研において、いかにお金を使わずに人を呼んで交流できるかの追求を始める。私自身、谷中技研で生活をしていた丸山氏を何度も訪ねたことがあるが、彼の生活に非常に大きな影響を受けた。丸山氏は必要最低限しか賃金労働をしない。私が頻繁に訪ねていたころは、早朝の警備員の仕事をしていて朝の5時くらいに仕事に行き、昼前には帰ってきていた。そして丸山氏は、家に余っている大根でも何でも捨てないで持って来いといい、谷中技研に集まった食べ物を魔法(彼は加工と呼んでいる)のように調理する。また、丸山氏自身も食材を集める名手で、100円を切る肉野菜魚等々をどこからともなく買ってきて、これまた絶品の料理に変える。そして、丸山氏は谷中技研を訪れた人と美味しい料理を共に食べつつ交流をする。一度、私が業務用スーパーの100グラム100円を優にを切る安い肉を持ち込み「これどうします?」と相談したときに「こういった物をどうやって美味くするか考えるのが面白いんだよ」と楽しそうに笑ったのを今でも覚えている。

 

 しかし、丸山氏の試みを面白がる人はいても、丸山氏と同様の生活に移行しようとする者は現れない。丸山氏の孤独な戦いは続く。この点が丸山氏を悩ませた。丸山氏は、丸山氏は別の社会の在り方として「来れば飯が食える場所」を提唱し、具体的なイメージとしては、311後の被災地を挙げている。丸山氏は被災地にボランティアに行った際に衝撃を受けたという。「みんな体育館にごろ寝。食べ物も味噌汁とご飯しかない。でもゲラゲラ笑って助け合いながら過ごしている。同じ場所に雑魚寝して、同じ味噌汁とご飯、これで幸福に過ごせる。災害ユートピアと言われるかもしれない。しかし、ユートピアのような二ヵ月、三ヵ月が確かにあった」と述懐する。

 

 丸山氏は、実社会とは別の在り方を提唱する試みを谷中技研において約10年間続けた。

しかし、丸山氏の魅力的な試みは周囲に賛同され、拡大を勝ち取るには至らなかった。丸山氏の「生活」が「社会」になったとは必ずしも言えない。丸山氏は、この理由として一つに年齢をあげる。丸山氏は2007年において30代半ば。学生と学生以降では認識に大きな違いが生まれる。東大生が谷中技研を去ったように、実社会の主軸たる30代40代には、丸山氏のメッセージが届くことは少なかった。そして、丸山氏は「実社会の方に魅力がある。何だかんだでみんなそこまで困っていない。実社会がどんなに苦しい場所でもこちら側に来ようとは思わない」と今ある社会の強大さを話す。

 

 また、丸山氏の困難はこれだけに留まらなかった。丸山氏の生活は実社会からの攻撃の対象にもなった。丸山氏が、食材を仕入れる際に数円、数十円単位まで気にすること、人よりもわずかしか賃金労働をしていないこと、24時間開放のスペースを来訪者の使い方を注意したこと等々で、実社会の認識から傷つけられることは少なくなかった。

 私も丸山氏と同業者として実社会の攻撃について考えることが度々ある。基本的に進学や就職など人生の新たな場所には一人で進む。住居も血縁者以外と一緒に住むことはほぼない。血縁者との同居以外では大半が一人暮らしとなり、家電や家具や物の大半を私有する。衣食住は賃金労働で個別に与えられるお金で賄い、その個人の領土やルールに他者が介入することはない。

 一方、丸山氏の試みや今ある多くのシェアスペース・シェアハウスの根底にあるのは集の試みだ。場所や物は個人のものでなく、みんなのものになる。当然、発生する問題もみんなのものであるし、またそもそもにおいて個の生活では発生しない問題が大半である。集の発想による、みんなの場所、みんなの物、みんなの問題、これと実社会の個は相性が悪い。シェアスペース、シェアハウスはレストランやホテルのように誰かが料理を運んでくれる、皿を洗ってくれる、掃除してくれる、警察や事務員のように誰かが面倒を解決してくれる、実務を処理してくれる、こういった事は絶対にあり得ず、構成員の誰かが時間を割いて対応している。この事がなかなか理解されない。さらには、そもそも場所や物があって当たり前、大事なものだと扱わなれない事もままある。これらの認識は時に非常に運営を苦しめる攻撃になる。

 

 現在、丸山氏は谷中技研を離れ横浜にて新しい闘いをはじめている。谷中技研を離れた理由については「やれることは全てやったから」と話す。谷中技研は、丸山氏が離れた現在、意志を継ぐ者は途絶え、24時間解放のフリースペースも制限がかかっている。

 その上で丸山氏は谷中技研という場が残っている意義を語る。「今後、さらに年齢を重ねて境遇の変わる人が出てくるかもしれない。例えば失職して何社受けても決まらない。そんな時に僕を見ていた人が僕の生活を思い出して、変化があればそれでいい。『そういえば、あいつはお金を使わないで人を集めて生活していたな』と。その時のために、場さえ残っていればいい」。

私は、友人であり、先輩であり、一人の師である丸山氏が谷中技研という場所で試みたこと、その場所を残したこと、丸山寛の10年間に及ぶ素晴らしい「仕事」に最大限の敬意を評したい。

 

注 スペースの総称は漢塾と呼び、その中で丸山を主体とした活動を谷中技研と呼ぶ。本稿では谷中技研と統一して扱う。

 

※ 以降は情況2016年4/5月号にて。

菅谷圭祐 について

菅谷です、三十路です。 連絡先 09075254766 sugayakeisuke@gmail.com
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